昭和100年で考える日本人の精神変遷:「志士型」から「個人型」への転換
昭和という時代の精神的転換点
昭和100年を迎えるにあたり、私たちは日本人の精神性が大きく変化した歴史的な転換点を見つめ直す必要がありま�...
昭和100年で考える日本人の精神変遷:「志士型」から「個人型」への転換
昭和という時代の精神的転換点
昭和100年を迎えるにあたり、私たちは日本人の精神性が大きく変化した歴史的な転換点を見つめ直す必要があります。昭和50年代を境に、日本人の主流となる精神が根本的に変わったという指摘があります。それは単なる価値観の変化ではなく、人々の生き方そのものを支える精神構造の転換でした。
江戸後期から続く「昭和前期型」の精神
18世紀後半、日本では「国益」という新しい概念が登場しました。これは漢語ではなく、日本で生まれた言葉です。それまでの「主家」「主君」のための忠誠から、「藩」全体の利益を考える思想への転換を意味していました。
この変化は、忠誠の対象が個人から公共へと移ったことを示しています。藩全体の利益のためには、主君への諫言も辞さないという姿勢が生まれました。これは丸山真男が『忠誠と反逆』で指摘した、日本における公共意識の芽生えでした。
幕末の「勤王の志士」たちは、この精神をさらに発展させました。藩を脱して、より大きな全体である日本の進路に関わろうとしたのです。明治から昭和戦前にかけて、日本国の発展・近代化が正統路線となり、職業や地位は、より深くこの目的に関わるかどうかで評価されました。「末は博士か大臣か」という言葉は、有能な若者への期待を表していました。
この時代を特徴づけるのは「社会全体の利益や目的に自発的にコミットすることで生き甲斐を感じる」精神でした。
近代日本における「公」と「私」の葛藤
しかし、この圧倒的な「公」を前にして、近代日本の知識人たちは深い苦悩を抱えていました。「公」は自分たちが作ったものではなく、あらかじめ設定されているものだったからです。
山崎正和は『鴎外―闘う家長―』の中で、この時代の知識人を三つの型に分類しました。森鴎外型は「公」と「私」の分裂しながらの並存、夏目漱石型は「公」の正当性が強い社会で「私」を模索する姿勢、永井荷風型は「公」からの脱落者として生きる美学でした。
戦後復興と高度経済成長期の精神
戦後、社会目標は経済復興・経済的豊かさに設定されました。経済人・企業人として勤勉有能であることが、社会全体の目的と矛盾しない時代が続きました。この時期まで、「公」へのコミットを生き甲斐とする精神は続いていたのです。
しかし昭和40年代、高度経済成長の成功により、経済復興という切実な目標が見えにくくなりました。企業に入ることに疑問を感じる若者も現れ、目標を見失ったエネルギーは、全共闘運動のように強引に社会的正義を設定し、その達成のために爆発することもありました。
昭和後期から平成へ:「個人型」精神の台頭
昭和後期になると、新しいタイプの精神が主流となっていきます。それは「個人主義的でありながら自発性がない」という、一見矛盾した特徴を持つものでした。
この「昭和後期型」あるいは「平成型」の精神は、個人主義的でありながら「公」への志向が弱く、「公」と「私」の間の心の緊張が希薄です。ミーイズムの時代とも呼ばれました。「公」の強さに接すると、引きこもる場合もあるという脆さも持ち合わせています。
昭和前期型が「自発性がありながら全体志向的」だったのに対し、昭和後期型は正反対の特徴を示しています。
これから育むべき精神とは
では、これからの日本人はどのような精神を育むべきなのでしょうか。一つのヒントは、アメリカ開拓時代の精神にあります。
『大草原の小さな家』のインガルス一家や『シェーン』のジョー・スターレットは、たった一人でも荒野の中で開拓をし、自分と家族を支える強烈な個人主義を持っていました。しかし同時に、自分一人では豊かで幸福な生活に向かえないことも理解していました。だからこそ、他者との協力が必要であり、そのために尽くすという「公」の意識も持っていたのです。
これは「私」を基礎とした「公」の意識と言えます。自発的な個人主義と、それに基づく公共への貢献という、二つの要素が調和した精神です。
昭和100年の課題
昭和100年を迎える日本社会は、江戸後期から続いた「志士の時代」を終え、新しい精神のあり方を模索しています。昭和前期型の全体志向も、昭和後期型の自発性を欠いた個人主義も、それぞれに限界があります。
求められるのは、強固な自己基盤を持ちながら、同時に公共への貢献を自発的に選び取る精神です。それは押し付けられた「公」ではなく、自らの「私」から生まれる「公」への意識です。この新しい精神のあり方を見出すことが、昭和100年における日本の重要な課題なのです。